昭和35年に母が結婚式を挙げたときの写真が、祖母(左)の遺品から出てきました。アルバムに貼付した綺麗な写真もありますが、あえてこの写真を載せます。
母方の祖父が中国東北部の南満州鉄道で働いていたので、一家は満州国四平街の社宅に住んでいました。昭和20年8月15日に終戦した時、長女の母は10歳。それまで裕福に暮らしていた日常が一変、終戦の混乱のなかソ連の兵士が家に押し入り、ごつい軍靴で寝ている母の顔を踏みかけて怖い思いをしたそうです。
翌年、一家で日本へ引揚げました。貨物を運ぶ無蓋列車に乗せられ港に移動するときに祖母が産気づいて、なんと列車のなかで出産したのだそうです。この時に生まれたのが写真右のセーラー服を着ている母の妹(三女)です。
まるで映画のような壮絶な引き揚げ体験をしてきた母一家でしたが、葫蘆(ころ)島という港から米軍の輸送船に乗せられ、命からがら博多港に帰国することができました。その後、祖母の故郷の島原に一時滞在した後、熊本県天草(本渡市)に移住しました。母が結婚して大阪に出てくるまで熊本に住んでおりましたので、熊本は母の第二の故郷となります。

私も子どもの頃、毎年夏休みになると優しいおばあちゃんのいる天草に滞在して、海岸で遊んだり、商店街で買い物したり、料理を教えてもらったり、懐かしい思い出がいっぱいあります。大人になって仕事で熊本に出張するたびに、胸がキューッとせつなくなり、ビジネスホテルの窓から熊本の街を眺めては目を潤ませていました。熊本は大阪育ちの自分にとっても特別な場所です。
令和8年熊本地震で行方不明となり、今なお救助を必要としている方々の速やかな救助と、酷暑のなか不自由な避難生活を強いられている方々の安全と健康をお祈りしています。
そして犠牲になった方、ご遺族の上に神の慰めがありますように。


母方の祖父が中国東北部の南満州鉄道で働いていたので、一家は満州国四平街の社宅に住んでいました。昭和20年8月15日に終戦した時、長女の母は10歳。それまで裕福に暮らしていた日常が一変、終戦の混乱のなかソ連の兵士が家に押し入り、ごつい軍靴で寝ている母の顔を踏みかけて怖い思いをしたそうです。
翌年、一家で日本へ引揚げました。貨物を運ぶ無蓋列車に乗せられ港に移動するときに祖母が産気づいて、なんと列車のなかで出産したのだそうです。この時に生まれたのが写真右のセーラー服を着ている母の妹(三女)です。
まるで映画のような壮絶な引き揚げ体験をしてきた母一家でしたが、葫蘆(ころ)島という港から米軍の輸送船に乗せられ、命からがら博多港に帰国することができました。その後、祖母の故郷の島原に一時滞在した後、熊本県天草(本渡市)に移住しました。母が結婚して大阪に出てくるまで熊本に住んでおりましたので、熊本は母の第二の故郷となります。

私も子どもの頃、毎年夏休みになると優しいおばあちゃんのいる天草に滞在して、海岸で遊んだり、商店街で買い物したり、料理を教えてもらったり、懐かしい思い出がいっぱいあります。大人になって仕事で熊本に出張するたびに、胸がキューッとせつなくなり、ビジネスホテルの窓から熊本の街を眺めては目を潤ませていました。熊本は大阪育ちの自分にとっても特別な場所です。
令和8年熊本地震で行方不明となり、今なお救助を必要としている方々の速やかな救助と、酷暑のなか不自由な避難生活を強いられている方々の安全と健康をお祈りしています。
そして犠牲になった方、ご遺族の上に神の慰めがありますように。




























